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「最後にして最初の人類」

映画 みてきました〜


元々は マルチメディア作品 だったそうです。
つまり 映像+ナレーション音声+オーケストラの生演奏 という出し物。
それを元に 映画の形に再構成した:音楽を作り直しナレーションとマッチさせた というもの。
道半ばで亡くなった監督兼音楽の ヨハン・ヨハンソン の意思を受け継ぎ 仲間が完成させた。
ナレーションの内容は 原作のSF小説の最後の最後の部分:いよいよ滅亡寸前の20億年後の人類の部分の抜粋でした。
原作の直接の映像化ではなく 人類の姿も映らない。
神秘的な造形物たちの間を征く 重厚なイメージ映像的なるものの連なりでした。
これらは 旧ユーゴの各所にある「スポメニック」と呼ばれる 石の巨大オブジェたち。
私は寡聞にして知りませんでしたが  写真オタ的には”廃墟もの”のカテゴリーなんじゃろうか。
音楽は 全体的にダークなアンビエントで
要所要所で 観ている者の不安感をmaxに煽る超爆音が マイバディーとマイブレインを直撃してくるため
非常ぉ〜にメンタルにくる視聴覚体験でございました。

この映画の原作小説の作者の オラフ・ステープルドン はSF文学黎明期の人で
HGウェルズとも交流があるとかいうレベルの時代の作家です。

私はこの4冊を読んでいます

「最後にして最初の人類」
「スターメイカー」
「オッド・ジョン」
「シリウス」 表紙どっか行った・・

2004「最後にして最初の人類」の邦訳が出た時は 名前だけは知ってるあの伝説の奇書が やっとこの手に という感じでした。
「スターメイカー」も同時期に再販され こちらは1990に同じ浜口稔氏で出ていたのを全く知らなかったもの。
とにかくそれまでは ステープルドンは日本では「オッドジョン」「シリウス」このたった2冊だけの幻の作家扱い。
そして現在 手に入るまとまった形としては この4冊だけ。
というかですね 絶版でもう読めないそうなのですが。 はぁ?

てゆうか ずっと思ってるんすけどね・・ 絶版てなんなん? 馬鹿なの?無能なの? とっとと電子化しとけや! 特に本書の様な書籍は 翻訳者が苦労に苦労を重ね 丹精込めて積み上げた 情報の文化遺産のようなもんなんじゃ。 日本国民だれでもいつでもどこでも サクッとアクセスできるようにしとけや!お布施させろや!あたま何時代なんじゃボケ!!2021年やぞくそがァ!! ハァ ハァ ハァ

私は幸にして17年前に手に取ることができたわけなのですが
なんというか幸運というか 情けないというか・・・
さて 当時噂では聞いていましたが 案の定かなり特殊な 読むのに難渋する本でありました。
この本は実は 小説と呼んで良いものかどうかもわからない奇書で
どちらかと言えば 長編ドラマとかアニメでいう 設定資料 という言い方が一番イメージしてもらいやすいかも。
しかも 時間軸が何十億年にも渡る 超巨大サーガの ガッチガチの重量級設定資料集でありまして  ひたすら 背景設定、背景設定・・ みたいな感じ。
こう言った 情報量のけたたましい 道中の険しい読書は 
荒地をリバーストライクぶっ飛ばして前進する時の感覚とすごい似ていて
ビューン ドガン ビューン ドガン の繰り返しになります。 => (*1)
僕的にあのゲームが快感なのは そういう読書が結構好き という性格と同根なところがあるのかもしれませぬ。
そしてもしや 小島監督の読書モンスターぶりと山登りとはやはり関連性が?

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「時間遠近法」
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とにかくですね 私はその当時 この本からとっても(悪?)影響を受けてしまいまして
特に「時間遠近法」という表現方法は かなり喰らいました。
距離や時間の大きさについて考えるのが もともと好きだったこともあり
これこれ! と膝を打ったものでした。
「時間遠近法」という言葉自体は 巻末の浜口稔氏のあとがきで触れられている用語です。

本書の中では 物語の進行に従って順番に 5つの図が登場し タイムスケール1〜5 と題されています。
5種類の年表みたいなものなのですが それぞれ目盛の単位が
500年
5万年
500万年
50億年
5兆年
という具合にどんどん大きくなっていき いわゆる10の冪乗:パワーズ・オブ・テンとなっています。
それぞれの年表は 真ん中が現在となっており 過去と未来の出来事の概要が前後均等にマップされます。
時間の範囲は このような感じ

タイムスケール1:キリスト誕生〜アメリカ化した世界
タイムスケール2:ハイデルベルク人〜<第1期人類>の盛衰
タイムスケール3:最初の哺乳類〜<第2期人類>の盛衰
タイムスケール4:惑星系の形成〜人類の最後
タイムスケール5:太陽の誕生〜(何も書かれていない未来・・)

そもそも「遠近法」というのは ”主観的”風景を描像する際の基本。
投影法と言われるものの一種:透視投影 であり
絵画を描く人はもちろん 3Dのプログラムを扱う方々など 日頃お世話になっているものだったりします。
最近は ゲームやCGをいじったりする人口が増え かなり身近な感覚でしょう。
CGでは Z深度 というものをいじくり倒しますね。

要点は簡単な話で
近くのものはでかく 遠くのものは小さく表示する です。
主観の世界:今ここにいる私からの眺め:極座標的な位置どり:FPS です。
一方 デカルト座標的な視点が いわゆる神視点、客観視点、クオータービューマップ。

( 遠近法について さらに話が長くなってしまい あまりにくどいため・・文末に移動しました。 そうとうお暇な方のみ こちらもご覧くださり‥=> (*2)  )

そして 空間座標における遠近法と同様なことが 時間座標の方でも言えて 
現在から見て遠い過去・遠い未来になればなるほど 時間間隔の目盛も小さく見えてくる 重みが小さく見えてくる。
これが「時間遠近法」というわけです。

例えば 「1時間」という時間の大きさが 昨日の1時間、先週の、先月の、1年前の、10年前の1時間・・ と遠ざかるにつれ どんどんちっちゃく見えてくる とるに足りないサイズになってきます。
主観的な観測では 空間も時間も 視線方向に遠ざかるに従い 同じ様にどんどんちっさく見えてくるぞ という面白さ。

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さて
日記 に「時間遠近法」を使うと 面白いことができそうです。
毎日1ページ日記を書く というのは普通の日記と同じ。
そこへ AI要約機能を加えます。
自動的に日記の内容を要約し 「時間遠近日記」のページを構築します。

この「時間遠近日記」を開くと
まずは 今週1週間に書いた分の日記が 普通に1日1ページづつある。

次に現れるのは 週ごとに各1ページとして要約された日記。
先週はあんなことが 先々週はこんなことが・・とまとめてくれている。
これが4、5ページあるわけです。

さらにページをめくるにつれ 要約されている時間スケールがどんどん拡大されていき
1月1ページ 先月分〜12ヶ月前までの分  
1年1ページ 1年前、2年前、、10年前まで
10年1ページ 10年前、20年前、30年、、百年前:日本近代史の中を生きるわたくし
100年単位で1ページ 100年前、200年前、、千年前:日本の歴史の要約(もはや歴史年表的なもの)
千年単位のページ 1000年前、2000年前、、1万年前:人類文明の歴史
1万年単位のページ 1万年前、2万年前、、10万年前:もはや私には直接関係ないスケール ホモ・サピエンスの歴史
・・・

こんな調子で 私の日々の日記が 最終的には宇宙の歴史年表のなかに組み込まれてしまったりしまったり。

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似たようなこと もう一つ気が付きました。
いわゆる ”3”がつくタイミング:物事の転機あるある が 時間遠近法では?・・

3秒 3秒ルール 食べるか食べないかの決断!

3分 インスタント的なるものの待機時間の限界

30分 ・・番組

3時間 映画 読書 日常生活での一作業の単位

3日 ・・ぼうず 飽きるか飽きないかの境界

3週間 で一仕事終わる件って多いよね

3ヶ月 1クール 1/4年 初心者から脱してそろそろ慣れてくる期間

3年〜4年 これが 最も興味深い時間周期でして・・・
中学・高校・大学の周期・・なのでバンドの盛衰とかがこの周期に同期する。
続けるか転職かの境界 次のステップへ段を登るサイクル
3年前からの仕込みがようやく効いてくる 事業の1サイクル 
研究開発段階から商品化へ移行するサイクル
人生の悩みどころも成果もまさに3年サイクル前後でやってくるし
経済や産業や文化や政治も3,4年周期くらいで変化進化が表面化しがち
トリエンナーレ オリンピック W杯 大統領選挙
ブーム:流行り廃りのサイクルであり 定着への土台を完成するサイクルでもあり 忘れた頃に帰ってくるサイクルでもある。
いわゆる現役というのが30年40年として 3,4年おきくらいの時間サイクルが 人間の身体にとって  最もドラマちっく的・起承転結の節目節目的なサイクル ってことなのかな・・

30年
人間の世代の引き継ぎのサイクル
すなわち 親から子 師匠から弟子 社長交代 伝統・技術の受け渡しのサイクル 伝統が途切れる/受け継がれるの運命の分かれ目 
現役バリバリで働ける期間 独裁者の増長から失脚まで 世界政治経済の枠組み的なサイクル

300年
なんだろう 革命のサイクル? パラダイムのサイクル?

・・最近個人的に色々思う事があり 思わず長々とこんな余談を書いてしまいましたね。

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・・はやく原作の内容の話をしろ。 はい。

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1930年という年
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まずは この本が出版された1930年ということについて 改めて注意されたし。
そうしないと 今この本を読む時に 非常に混乱する危険性。

まだ第二次世界大戦は起きていない すなわち 冷戦のれの字もなし。
したがって 米ソの話 なにより 宇宙開発競争 が起きていない! 
当時は 米ソが太陽系を探査し 月に立つなど 想像もできない事だったと思われ。
なので この小説では 人類の宇宙進出は すっごい遅れます はい。
何百万年も後! <第五期人類>にて 月の落下から逃れるために エーテル船なるものを建造し 人類は金星へ移住します。

一方 核爆弾ではないが 核エネルーギー的な フェイザーライフル的な手持ちのビーム兵器で 島一個吹っ飛ばしたりの描写あり。
(これが伝説化し エネルギー信仰の宗教のようなものが生じ <第一期人類>をじょじょにバカ化して 一旦未開人すれすれまで落ちぶれさせる。)

小説では 米ソではなく米中対立が大きく取り扱われる。 
ある意味 先取りしているのかなあ。

1930年というと H・G・ウェルズはまだまだ元気で
原子爆弾の予言書「解放された世界」は1914に出ています。
ウェルズとステープルドンは交流がありました。

1930年ごろの 宇宙についての我々の知識は こんな感じ・・
まずは 冥王星が まだ発見されていない。
というかまさに クライド・トンボーの冥王星発見が 1930年2月18日
間に合わなかったかぁ!
小説の終盤の主要舞台は 海王星 であります。
ただ 驚くべきことに
「海王星の外に惑星的なものが3つある」という記述が<第八期人類>のところで出てきて
さながら 冥王星 エリス マケマケ ハウメア を予言するかのような。
冥王星の存在は 天王星と海王星の軌道のずれからあらかじめ予測されてはいたものなので
「惑星があるらしぞ」いという事自体は ステープルドンも聞き知っていたに違いないです。

1924年 ハッブルにより アンドロメダが銀河系の外にある別の銀河であると判明。
つまり 宇宙は銀河系の外にも広がっている ということがやっと判明ほやほや です!
1929年は宇宙膨張も発見。
もちろんですが 宇宙の年齢が138億年であるなんて そんな情報は全くありません 。
ですので タイムスケール5は 数兆年に及んでおります。

そのほか
遺伝子は まだDNAであることがわかっていない。
素粒子物理学では 不確定性原理とかディラック方程式とかが1927年で 場の量子論という考え方が出来立てほやほや。

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「最後にして最初の人類」
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以上を踏まえ あらてめて 原作「最後にして最初の人類」とは。

人類文明は 20億年の歴史のなかで
いい線まで発展しては 結局は崩壊を迎える ということを
18回 もう一度言います18回 繰り返します。
<第一期人類>から<第十八期人類>までの 栄枯盛衰の一大記録です。
人類文明は 何度も何度も 壊滅的な状況に陥るが
そのたんびに 原始状態から科学文明レベルまで 結構さくさく(まあ数万年〜数千万年とかで)復活する。
コスモスケールの時間の大きさに比べて 人類文明の盛衰の振動:原始 > 科学文明 > 原始 > 科学文明・・ など 時計の秒針のようなものなのである。

舞台は 地球 金星 海王星 と移り変わります。 かっこいいですね。
引越しの理由は
潮汐エネルギーの使いすぎと思しき原因による 月の落下
謎のガス雲が 太陽に突っ込んでくる
近所の恒星が 謎の連鎖反応を誘発
などです

本書は ぶっちゃけ 長大で苦行のような読書なのですが
今だに強く記憶に焼き付けられてしまっている光景がいくつもありまして
今回 あらためてペラペラめくりつつ 真っ先に読み返したのが・・

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[ 火星人との戦い ]

初見時に あまりに印象的だった部分。
<第二期人類>の時に 火星生命体が地球に襲来する。
水と植物を奪うためである。
ダイヤモンド信仰とかいう謎の宗教も理由だったり。
火星人は 人型生命体ではなく
集団精神統合体:塵というかガスというか 流動的な形態の生命体で
エーテル振動による意識を持つ。
合体したり千切れたりして 互いにテレパシー交信する 意識の集合体みたいなもの。
彼らは 太陽風を利用して 地球の資源を奪いに何度も襲来するのだが
いつまで経っても 人類のことを知的生命体だと気づかない。
意識のシステムがあまりにも違いすぎて 人間の脳が高い知能だとは理解できないのだ。
一方 人類の方も 火星人襲来の事を 毎度毎度の謎の自然災害だとしか理解できず
災害対策に四苦八苦しつつ なんとか頑張っている。

そして 数万年経ったころ なんかお互いに
「これってもしかして知的生命体なんじゃね」ってことになってきて・・
でもまあ 互いに潰し合うことは結局やめず 愚かにも両者ともに衰退していく。

ガス生命体といえば 決定版 フレッド・ホイル「暗黒星雲」が1957なのですが
この<第二期人類>のエピソードは その27年前 
しかもホイルの上をいく奇想天外さで 度肝を抜かれる。


[ 塔型人類 ]

これもキテレツ。
<第四期人類>は 脳だけの形態の人類です。 巨大脳人類。
脳を収めた鉄筋コンクリート製(って書いてる)の巨大な塔(魍魎の匣かな)。
それが 10万本?10万人?立ち並ぶ世界。
彼らは 火星人由来の伝染病から獲得したテレパシー能力で 互いに通信する。
彼らが <第三期人類>の標本をもとに 品種改良して造ったのが <第五期人類>で 
もっとも栄え優れた文明を 何百万年も維持した種族となっていく。



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そんなこんなで
人類は 進化 退化 ある時は自ら人工的改造を施し あるいは新種を生み出し 高等種と下等種に分岐したり 火星人のテレパシー能力的な何かが感染したり と
肉体的にも 精神的にも どんどん変化していきます。
読者は 衰退してはまた再興し という物語を 延々と読み続ける苦行をしいられるわけなのですが
永劫回帰 シーシュポスっぽいですね。 あるいは煉獄。
「火の鳥」的コスモスも感じる気もし これは仏教?(私は仏教に関してはほぼ無知なのですが)

そして 倒れては立ち上がる人類を眺めているうちに 麻痺してきて 
やがて こんな気持ちがむくむくしてくるのです・・

例えば温暖化によって 最悪今回の文明が原始時代級・マッドマックス級まで後退してしまったとしても
生き残りが数万人 最悪十人くらいまでに減ったとしても
何万年 何十万年後には 立派な文明が再興していることでしょう。
人間とは そういう生命体だ。
地球の歴史45億年のスケールからすれば 一瞬のダウン。 すぐに立ち上がって試合続行だ。
世界の人口は80億人近くなってきました。 私が子供の頃は40億だったよ。
シャーロックホームズの時代は 馬車とガス灯と蒸気機関車の時代だけど そこから月着陸までたった数十年だ。
一方 時間を過去方向に取れば 失われた超古代文明系のわくわくストーリーです。

この本の中での人類は 失敗を何回繰り返そうとも 結局その性根に進歩はなく いざこざ・精神不安定からの崩壊 という運命を 繰り返し繰り返し辿る。
さすれば
現在の21世紀神経症的文明が 一旦 悲惨な結末を迎えたとしても
人類・生命の歴史トータルから見れば 些細なエピソード
どうせ人間はいつまでたってもポンコツ 滅びと再興を繰り返すのみ それ以上でも以下でもないではないか。

かくのごとく雑で野蛮な哲学を誘発するパワーを この物語は妖しく強力に放っております。
今回ちょっと読み返しただけでも 怖くなって一瞬本を閉じたくなる。
私はこの本から  時間スケール・空間スケールの捉え方の方法論とか 文明の相対化など さまざまのものを受け取ってしまっているのですが
特にこの 邪悪な上から目線は ほんとに人としてダメかもしれんという恐怖感があります。 おとろしい・・・

==

人類は <第十八期人類>で ついに終わりを迎えます。
20億年後 ついにけじめの時を迎えるわけです。
結局 種は最後には消滅する 永遠はない という事でしょうか。
でも それでいい。
そして この宇宙自体 最後には結局終わりをむかえるのです。
このことが われわれに どうにも独特な感覚を呼び起こす。
悲しみ 美しさ 儚さ ? なんとも表現し難い感情 
一度発生すると ずっと心に住み着いてしまう感覚
究極の寂しさ ? であり 安らぎ ?
うまく言えない。 とりあえず ”超キューンとする” でどうでしょうか。

現代の宇宙論の仮説では
この宇宙は 永遠に膨張し続け 究極に冷めていくという終焉を迎える。
最近では しぶとく生き残る巨大ブラックホールの名残のみが散在する宇宙となるとも言われる。

==

さて
<第十八期人類>は 人類の滅亡の運命に直面し 2つの策を実行する

1.宇宙播種
人工生命体の種を宇宙にばら撒き 運が良ければ 辿り着いた先の環境で 再び人類由来の生命が栄える可能性に賭ける

2.過去への精神通信
過去の人類へメッセージを送る。 人類の全歴史の記録である。
これを受信するのが 作家ステープルドンだったという 大オチである。
さらに 彼らの意識情報は 現在の我々<第一期人類>の中に精神融合していく。
これにより 未来から過去への円環構造を構成するわけだ

1. 宇宙播種 : 空間方向に開かれたソリューション
2. 精神融合 : 時間ループに閉じたソリューション


これが この本の 最終結論である。 => (*3)
震える。

どちらの案も 儚さを孕んでいる。
第一の案は 成功の見込みはほとんどないと述べられている。
そして
第二の案の実行の結果が この「最後にして最初の人類」という書籍として いまあなたの目の前にある という仕掛けになっているわけだ。
滅亡文明の記録を受け継ぎし者。
スタートレック・ネクストジェネレーション「超時空惑星カターン」を思わせる。
知ってる人には今更なヒューゴー賞傑作エピ。知らない?SF者の風上にもうんぬんかんぬん 未見なら直ちに急行せよとりあえずさあ早よ早よっ! シーズン5 第125話

カターンでもそうであったが あの感情 あれは何なのだろうか。
あの感情には なにか名前がついているのだろうか。
滅亡 確かにあった文明 確かに生きて人生を送っていた人々 失われた全てのもの
幻と消えたものに対する感情 独特な胸キューゥ感覚
(古代遺跡ロマンみたいなのは 若干かすっている感じもするが  違う。)

やはりこの感覚 SFにしか表現できない感覚だと 僕は思ってます。
クラークの「遙かなる地球の歌」
地球を脱出し 恒星間航行する船。 振り返りながら地球崩壊を観測する人々。
あの胸の締めつけたるや!

よく勘違いされるのだが
歴史の教訓だの 現代文明への警告だの そういうことではないのだぞ SFの真髄は。
ザ・SF感覚 を誘発するための デバイス なのだ。
知識や客観 そこから推測し夢想され構築される未体験ゾーン そこへ読者を誘いこみ 未知の感情を誘発するのだ。
わかりましたか? 
はいでは マイク・オールドフィールドの「遙かなる地球の歌」を聴きながら お開きといたしましょう 。

[ 終 ]


続編「スターメイカー」が さらに凄まじいのであるが
私は限界である。 みなさんさようなら。


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お暇な方 よければどうぞ・・
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(*1)
本当に脱線多く 文がだらだら長く 下手くそで申し訳ないです。

散らばる障害物に どかんどかんつまづきながら 漸進するが如き 読書 という話ですが
しち面倒くさい本の山登りは
とにかくふんばりながら一歩一歩
時々 雨宿り セーフハウスでモンエナ
そして いよいよ視界がひらけてくると 爆速でヒャッホー。 です。

私の場合とにかく くず紙、レポート用紙、ルーズリーフ等に 殴り書きしながら読み進めることが多いです。
岩塊にぶつかるたびに とりあえずその引っかかった単語や節を 手を使って ちょちょいと書いてみる。
メモ、ノートではなく あくまで読書の邪魔にならない 適当な落書き です。
そして とりあえず前進する。
わかんなくてもとにかく先に行ってみよう。

さて 一服時間に ふと見ると
私の前には 一枚の紙の上に謎の呪文がごちゃごちゃ並んだ魔導書 あるいは秘密の地図的なもの があるではないですか。
コーヒーでも飲みながら 鉛筆で線で繋いだりまるで囲んだりバツつけたりコメントしたりします。
宝のありかは何処なんだろうか。 結局 この本の正体 は何なのだろうか。
ここまでのところで 何か手がかりはあるのだろうか・・

とにかく手で落書きする ということの効果は とてつもなくデカく
良く見かける 付箋やライン引きは 私はあまり向いていないほうで
つまり結局 それだと 本全体に情報がバラバラに分散してしまうのですね。
紙だと 一箇所にごちゃごちゃと情報が並んでいる状態になってくれます。

また きちんと書こうとする 立派なノートを作ろうとする誘惑 にも負けてはいけません。
まずは アタリ、ラフを取ること 汚ったねーグダグダでOK。
おそらく天才には必要ないのでしょうが 私みたいな凡人には 手でのラフスケッチから始める事が かなり重要になります。
その後お暇なら 細部に取り掛かるのも清書するのもご自由です。

読書の目的は かっこいいノートを作って棚にしまうことではなく 内容を理解してそれを糧にすることなので
まずは 全体像を 流れを 骨格を 敵の正体を 掴む。
これは
何を見聞きした時でも 何を勉強するときにも 何を「創ろう」とする時においても
全てにおいての鉄則かと思われます。
まあ実際には 敵の正体掴めずじまいで撤退 という事も幾度となく経験するわけなんですが めげずにめげずに!

以上のようなことは たぶん僕の個人的な性格などとももつれた 経験則でしかないかもしれません。
が、
手の運動と 眼での地図的俯瞰が とても脳にいい感じを及ぼす これは間違い無いかと思われ。
口から大声を出して耳で聞くのが 英単語とかでは効果覿面とも聞きますが
要は 運動のフィードバック なのかもしれません。

そういう意味では 雑だけど速読ではない かなりゆっくりのんびり読書なんです。
世間のニーズとはたぶん真逆かもしれず そこは本当にすまないと思っているッ。

==

(*2)
「遠近法」というのは 投影法の一種:透視投影 で
近くのものはでかく 遠くのものは小さく表示する
FPS視点のこと 主観の風景です。
視線方向の距離 Z に従って 物の大きさを 1/Z に描きます。

唐突ですが 数の数え方の話を。
数を数えろ と言われた時 普通は1 2 3 4・・と ひたすら均等に数えるでしょう。
これは 非遠近法な 等間隔な数え方です。

一方 遠近法的なる数値の扱い方:数え方では こんな感じのイメージとなります。
(非常に不正確ではありますが イメージは伝わるかと)
1, 2, 3, 4, 5, 6, 7, 8, 9, 10,
20, 30, 40, 50, 60, 70, 80, 90, 100,
200, 300, 400, 500, 600, 700, 800, 900, 1000,
2000, 3000, 4000, 5000, 6000, 7000, 8000, 9000,・・・
数がでかくなるにつれて カウントの単位が大きくなっていきます。
逆に言えば 遠くに見える1000単位の目盛が 直近の1単位のメモリと 同じ大きさ:同等の重みになる ということです。
いわゆる「対数」です
x10倍 x10倍 ・・ でどんどん拡大していく世界観。
視線方向にどんどん遠くへ目を移していくこと ですが
カメラが上へ上へと引いていく景色 とも申せましょう。
対数グラフ用紙 というものを見たことがあるかもしれませぬ。

「対数」と聞いても まったく怖がる必要はございません。ものすごく簡単な話。
先程のカウント方法を続行すると
10, 100, 1000, 10000, 100000, 10000000,・・ と
0が止めどなく並んでいく事態に陥るわけで
超読みにくい 間違えやすい わかりにくい
あっそうだ! いっそのこと 0の数だけ言えばいいのでは?
10,を「1」 100,を「2」 ・・・ 1000000000,を「9」 って言えばいいんじゃね。
以上。

ついでに言うと log Z の微分が 1/Z なのです。ね。

遠近法とは 対数的世界観
今ここに立っている自分が 広がる景色・大宇宙を眺め観察したり 悠久の地球の歴史を振り返ったりする時に見える景色は 対数的なる景色です。

面白いことに 人間の感覚センサーは 対数スケールを採用しています。
世界の観測にはこのスケールがベストであると 自然淘汰がとっくに結論を出しているわけだ。

視覚(明るさ)は 対数スケールセンサー です。
星の明るさ:等級は 人間の目には 1等級ごとに大体同じ間隔で順々に明るくなってる様に感じられるのですが
実際の光度の数値は 1等級ごとに x2.5倍 すなわちほぼ倍倍で上がっています。

聴覚も 対数スケールセンサー でして
1オクターブというのは 人間の耳には自然な1巡としてクオリアされ
12音階も 音程が等間隔で上昇していく様に感じます。 が、
実際の周波数は 1オクターブごとに x2倍(1音階の12乗で x2倍) となっていて やはり倍倍で上がっていってます。

・・

投影にはもう一つあり
平行投影
クオータービュー: 斜め見下ろし視点のゲームマップの世界観
客観的な世界観:デカルト座標で考える立場
神視点です。

==

(*3)
チューブ状になります!
便宜上3次元を1次元の直線に圧縮し 時間軸をカールさせると 筒の様な形の時空間になる。
いわゆる 弦理論で言うところの余剰次元がカールしているのも こんな感じである。
消滅の終点から逃れる方法:次元を上がって逃れる方法 というのが似ているのかもしれない。
透視能力がある異能者にとっては こういう形が自然な結論なのだろうか。
まあ 妄想です。

2021.8.2

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