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デューンとファウンデーション いよいよカウントダウン

SF小説界の 2大レジェンドが 奇しくもほぼ同時に 映像化作品公開!!
自分でもよくわからんのだが すごい緊張する。
期待と不安の気持ちを鎮めるため なにか書き殴ることにしました。

ファウンデーション : 9/24 AppleTV
デューン : 10/22 映画公開

どちらも SF小説のレジェンド 古典
長大な原作
銀河を舞台にした大作SFの原型
スターウォーズの 父と母

映画では ドラマでは どの部分を映像化しているのか?
どこまで原作準拠なのか どんな現代化がスパイスされているのか?
あるいは もはやオリジナルストーリーなのか?
そもそも ドラマ化なんてことが本当に可能なのか(特にファウンデーション)。



[ ファンデーションシリーズと 関連世界 ]

著者:アイザック・アシモフ(1920 - 1992)

宇宙の小石 1950
暗黒星雲の彼方に 1951
宇宙気流 1952

ファウンデーション 1951
ファウンデーション対帝国 1952
第二ファウンデーション 1953
ファウンデーションの彼方へ 1982
ロボットと帝国 1985
ファウンデーションと地球 1986
ファウンデーションへの序曲 1988
ファウンデーションの誕生 1993

新銀河帝国興亡史
ファウンデーションの危機 グレゴリイ・ベンフォード 1997
ファウンデーションと混沌 グレッグ・ベア 1998
ファウンデーションの勝利 デイヴィッド・ブリン 1999

そのほか
『鋼鉄都市』『はだかの太陽』『夜明けのロボット』のロボット3部作も含まれる



[デューン シリーズ]

著者:フランク・ハーバート(1920 - 1986)

デューン/砂の惑星 1965年
デューン/砂漠の救世主 1969年
デューン/砂丘の子供たち 1976年
デューン/砂漠の神皇帝 1981年
デューン/砂漠の異端者 1984年
デューン/砂丘の大聖堂 1985年

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どちらも同じように 銀河文明長期計画の話 です。
実際 もうずいぶん昔に読んだのでありますが(後述しますが 実はデューンシリーズの方は読破してないのですが・・)

ファウンデーション:
数学によって未来を予見してしまった者のプラン 星々を股にかけた攻防 そして隠された真のプラン・・
どうしてこうなったいきあたりばたり増築違法建築巨大ビル的大作。
気を張らずに読める娯楽大作。 大好き。 

デューン:
スーパーパワーによって 過去・未来 全てを見通してしまった者の 秘密の計画 苦悩 対抗勢力の陰険な策略 神としての自己犠牲
緻密に構築された幻想文学の城砦
尊敬 難解 そして実は・・嫌いになった・・

デューンは ものすごい頑丈な基礎工事の上に どっしりと巨大建築が構築されてる感じ
一方 ファウンデーションは 終始かなり行き当たりばったりで 九龍城

両者とも ワクワクの世界観には違いないです。
少なくとも出だしは・・・

==

両者には たくさんの共通点。

どちらも 人類が銀河の隅々まで広がった かなり未来の世界。
銀河文明が形成されてからかなり時間が経っており そろそろガタも出始めている。
テクノロジーが後退していたり 昔の技術がかなり失われていたりします。

ファウンデーションの 特に若きハリセルダン活躍シリーズでは ロボットの禁止 が重要設定なのですが
一方デューンでは 人工知能が禁じられていること が重要設定で 
銀河辺境に 違反の技術文明:イックスやトライラックス があったりといった舞台設定がなされています。
ファウンデーションシリーズの方でも 銀河辺境は豪族の手の届かない地であり そこに技術や文化の記録を避難させようとするのが 第一ファウンデーション。

どちらも遠い未来であり 現在の私たちの文明とはかなり違っているはずなのですが
SF小説では その異様さを表現する手法の一つとして
逆に時代を遡って 中世ヨーロッパの騎士道世界や大航海時代、帝国主義 などなどの世界観に寄せる という手があります。
そのことで 倫理観・道徳観が今とは違うであろう未来世界を表現しつつ 実在感を出す。
現代とは異なりつつ しかも結構馴染みがある舞台 という手なわけです。
もしかしたら この手の元祖が アシモフなのかなあ(そこは無責任には言えませんが)。
そして 砂の惑星は その直系であると。

そして スターウォーズは 明らかに ファウンデーションとデューンが 父ちゃんと母ちゃんです。
ジェダイが使う心理コントロールは 第2ファウンデーションやミュールがヒントであろう。
砂漠の惑星タトゥイーンは まさにそのもの。 砂漠がSFぽいという慧眼。
二つの月 ならぬ 二つの太陽とか。
チャンバラ戦や戦闘機戦は 高度なテクノロジー同士の戦闘とはお世辞にもですよね。
そして そこが最高なわけなのです。

この 異質さの表現は エスカレートして 我々のイメージ能力から離れてくると
うまくすれば 想像を超えた驚きと興奮 となりますが
裏目に出ると もはやその世界に感情移入できなくなってしまう嫌悪感に。
その世界にいたくなくなるのです。
そして実は デューンサーガの後半では 実はそんな雰囲気が醸し出され始めまして
かなり精神的にキツくなってくる・・

===

両者が扱っている中心課題は 私個人の雑な理解では 

ファウンデーション
人類の社会や文明というものは 放ったらかしておくとやがてダメになってしまうもんである。
誰か有能な人がちゃんと面倒を見てないとダメである。
エリート学者? 精神コントロール? 献身的なロボット? ロボットである必要すらないのでは・・
ちょっとまて怖いこと言うな! 逆にスピリチュアル系な平和世界はどうだ?
うーむ、ぐるぐるぐる・・

デューン
この宇宙は結局どっち?
決定論的 : 未来は物理法則に従うのみ 全て機械的に運命づけられて 抗えない
非決定論 : 運命に対処する手段 未来を選択する手段の可能性
過去も未来も完全に見えてしまった場合 その運命に対してなんかできることがあるのかね?
諦観するのか? いいや、良い選択の道を進んで未来を選んでいく余地はあるのだ。
それは 遺伝子血統をいじることで? 謀略策略の政治で?

ファウンデーションは アシモフが 面白い大宇宙活劇を書いてやろうとたくらみ ほんとに面白い話を書いてくれたという 正真正銘SFエンターテインメント
(途中から 首都惑星トランターの話ばかりになる長い期間があり その間ちょっと残念だったりするのですが)。

なのですが デューンの方はというと・・
(ここからは 主にデューンについての雑談と化します・・化してしまった・・ )
早い話が 銀河の話・大宇宙の話でなくても成り立つ物語。
地球上の色々な勢力の覇権争いの話 とみても 成り立っちゃう。
指輪物語的なファンタジー・幻想文学に近い感じ。
舞台を 神聖レト帝国とかイックス島とか に置き換えたとしても
ギルドの航宙貿易を 海上の交易勢力、石油とか胡椒貿易 みたいなことにしても
いいのである。
ベネゲセリット ベネトライラックスは 世界で暗躍する宗教団体 みたいなことである。
ぶっちゃけ アラキスが ギディプライムが コリノが 我が銀河のどこに位置していようとも ほぼ本筋に影響はなく 物語の骨格が1mmも変わることはない。

作者の興味は そこ:大宇宙を舞台にした壮大なSF物語 には無いわけなんです。
これはSFなんだろうか 幻想・奇想文学なのではなかろうか。

では 何を描きたいのか?
もちろん 作者ハーバートの哲学・思想を 大きく反映させたものとなっているに違いなく
しかし読めば読むほど その核心部分が 捉え所なく はぐらかされつづけ
主張 その否定 新たな主張 その否定 みたいな問答・ストーリーが 延々と続き
「いつかは解る」「いつかは明かしてくれる」 と辛抱しながら読み続けるはめに・・
デューンはそういうサーガであります。

アシモフは科学者で 科学の啓蒙書の方が小説よりもむしろ多かったりする。
楽しい楽しいサイエンスなフィクションをその都度詰め込んだ 物語構造は行き当たりばったりの雑貨店。
銀河帝国の物語は トランターの位置 ターミナスの位置 ガイアの位置 地球の位置が 銀河系地図の中にマップされている様が 面白さの大きい部分です。
劇中 星から星へと文化が伝播する研究にて 起源星の位置を推測する理論の話が登場したりするのですが
SF小説は こういう計算がやりたくなってくる性のものだったりし
そしてアシモフは そういうのがすごく書きたい人なのですね。

ハーバートには そういう興味はないのです。
文化の盛衰 大衆統治の方法論 必要な暴力の肯定否定
そして何よりも悩ましい 優生論的遺伝操作の倫理の是非
こういった事の周りを回り続けることが ハーバートの性癖なのではと思います。
デューンは 物語世界の広がりはなく 星間戦争のようなものも ほぼない。
よーく映画を思い出していただきたい デューンの戦争って 地上戦だけである。
そして そのような戦闘自体 第1巻にしか出てこない。
ハーバートは宇宙船の描写を全くしない。 テクノロジー描写もぼんやりしている。 興味がないのだ。
そもそもデューンは 科学が封じられた世界。
華やかなSFガジェット SFメカが封じられた世界。
ギルドの宇宙船の原理は科学的ではない スピリチュアルである。
オーニソプター 別に軽飛行機で良いのでは。
イックスの装置:レトの乗るやつは 空飛ぶ棺桶みたいな乗り物だし
レトの格闘シーンが 巨大芋虫がゴロんゴロんしてるとしか・・ なんかこう・・ なんかもっとこう・・・

一方 生態系描写にすごい力点がある。 そこが小説界に新しい境地を開いた すごい功績とされている。
砂虫 リトルメイカー 砂鱒 水・香料の関係
砂漠の生態系と共生するフレーメンの習俗やガジェットについての 微に入り細に入りの設定 説明。

===

改めて全体像を。
以下のように便宜的に 大構造を 1部 2部 3部 としてます。

初期3巻
1部1巻 砂の惑星:1965年
1部2巻 砂漠の救世主:1969年
1部3巻 砂丘の子供たち:1976年

次の時代を描く
2部 砂漠の神皇帝:1981年

最後の時代が
3部1巻 砂漠の異端者:1984年
3部2巻 砂丘の大聖堂:1985年

出版年を見ると 
銀河帝国シリーズのような行き当たりばったりではなく
一定のペースでじっくり書き進められていることがわかります。



1部1巻

デビッド・リンチ監督によって映画化された部分です。
未見の方はぜひ見てみましょう。 そして ? となりましょう。
1部1巻の部分のみの映画化なのですが
とっても原作に忠実なあまり 途中で打ち切りになったドラマみたいな映画になってしまっています。

ハルコンネン男爵のあっさりとした最後
エイリアって何なの?
イルーランて何なの?
出てきて死ぬだけのダンカンて何なん?
ベネゲセリットって結局何がしたいん?
これ等の説明の無さも 最後にあれよあれよと決着がついてしまう部分とかも
実に馬鹿正直に 原作の最初の部分のプロット通りなのです。

今回の再映画化は パート的にはリンチ版と同じ内容となると思われますが 
ただ今回は 続編が正式決定している そこが最重要ポイント。
今度こそ 続きへの伏線を破綻なく織り込んだ 完全映画化となってると期待されます。

一方 心配なポイントもありまして
後述しますが ハーバートの原作と リンチの怪奇趣味的な雰囲気は 実はかなりマッチしていて
映画制作時 リンチとハーバートは かなり意気投合したらしいのですが
今にして思えば あ”ー なるほど と 腑に落ちる事しきりなのです。
で、
一方 ヴィルヌーブ監督の ミニマルっぽいスタイリッシュ感は 実は原作とは全く対極にあります。
今回の映画は多分 超かっこいいスマートな映画になっちゃってるに違いないのですが
小説の世界観は どちらかというと怪奇タイプ・奇想タイプで その点はリンチの方がシンクロ率が圧倒的に高いと思うのです。

さて 1部1巻は リンチ版のほかにも Sci-Fi TV版が作られています。
こちらは昔 CS放送のどこか(スーパーチャンネルだったかナ・・)で見ました。
その後 続編までちゃんと作られてた様で そちらは未見です(Youtubeで切り抜きがちらほら見られる・・)。
Sci-Fi TVでは同時期に ゲド戦記 もドラマ化していて 楽しかった思ひで。





1部2・3巻

さて 今回ついに続編として映画化がアナウンスされている 1部2巻以降ですが
原作の方は実は 宇宙戦争的な派手さは完全に後退し
心理描写的に 内に内に潜る方向になっていき
ドラマも 諜報戦・謀略戦 みたいな話が多くなってきます。
映画化するとすれば この辺りをエンタメ化するには かなりの手腕が求められると思われ。
アナウンスによれば チャニが活躍するらしいということなので
もしかしたら 続編の方は 原作からかなり改編され
ポールとチャニのラブストーリー的な何かに 魔改造されている可能性もあり。
原作では チャニが大活躍したような記憶は一切なく 
なので かなり映画オリジナルストーリーとなってしまう予感がします。

原作通りに展開するとすれば 見せ場は以下の様になるはずで 本当はこっちが見たい。

第2巻
ポール vs フェイスダンサー:スタンド戦的スーパーパワー戦 マノ・ア・マノ
姿形を自由に変える敵 トライラックスのフェイスダンサー。
一方 ついに予知能力が極限に達し もはや予知世界と現実世界が同時平行にスーパーインポーズされる能力を発動し 自在に先回りする究極パワーの ポール!

第3巻
エクソシスト的サイコホラー
チャニの二人の子供:レトとガニマ vs エイリア戦
プレボーン:誕生以前者:祖先の全記憶を内蔵する呪われし存在の三人 エイリア レト2世 ガニマ。
ダークサイドに落ちて制御不能の多重人格化するエイリアと それに唯一対抗できる幼いレトとガニマ。
そして ハルコンネン男爵との真の決着が着く。

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ここまでの 第1部全3巻は 全知の苦悩 つまり

・未来の全てを知る苦痛
 見えてしまった未来へ ただその道筋を辿ることしかできない苦痛

・過去の全てを知る苦痛
 遺伝的につながる過去の全ての人格・記憶の集合体と化し 飲み込まれ自我崩壊する恐怖

過去も未来も全て見えてしまうつらさ。 神はつらいよ。

ポール兄妹も ポールの子供たちも それぞれ全知の苦悩を背負っているのですが
ストーリー的には
未来の記憶は ポールの苦悩として これが「砂漠の救世主」
過去の記憶は エイリアの苦悩として これが「砂丘の子供たち」
という感じに分担されてると思います。

===

余談です
僕が持っている「砂漠の神皇帝」文庫の後書が
「ついに映画化決定 デビッドリンチ監督!」みたいなものになっており
とにかく大興奮 大期待 祭り状態なのです。
あぁ、 我々には その後の未来が見えていますね。 ことの顛末が。
いや 未来ではなく過去なのだが この後書きからは未来であり。

ここで僕は 神皇帝の苦しみ 未来が分かってしまうつらみ を擬似体験してしまった。
映画公開がすでに遠い過去となった時間を生きる我々 すでに結果を思い知らされている我々は この後書きの中で期待に胸膨らませて超わくわくしている氏に対し かける言葉もない なんともやるせない気持ちになるのであります。
これが ポールやレトの苦悩なのかもしれない・・



2部「砂漠の神皇帝」

そして 第2部以降は レト2世:神皇帝 が未来の記憶に苦しみ対処していく話 ポールの苦しみを引き継いでいく話 という感じ。

日本語タイトルは「砂漠の神皇帝」となっていますが 
時代は1部の3500年後で アラキスはもう砂漠じゃないんですね。
xxシーチとかは 菜園とかがある村になってたり 小川が流れていたり。

そしてこの「砂漠の神皇帝」 とにかく辛い 文庫全三巻が辛い。
そして 最後まで読んで ・・わからない。 何もわからない。
当時わたしは 頑張って精読しました。 本当に頑張ったんです。 
そして・・わからん。
なにか見落としたのか いや 一言一句見逃さずに読んだはずだ。
俺の頭が悪いのか。

ドラマ的には 大規模な戦闘シーンはなく
小規模な暗殺計画や 奇襲作戦のようなもの の連続。

「神皇帝」以降 サーガ終了(未完)までは ただただつらい読書が続く。
先読 策略 ほのめかしに次ぐほのめかし・・
ダンカンが言います「陛下が何をおっしゃっているのか私にはさっぱり」
こんなセリフばかりの日々。
我らが主人公 レト皇帝が そもそも 読者の感情移入を拒む造形と化してしまっており
ハーバートには 読者を主人公に寄り添わせる気がさらさらない。

”黄金の道” という レトの目指す世界線があるのですが 
「これがきっと 作者の思い描く理想の宇宙像に違いない ハーバートの哲学に違いない」
と思っていると
あらゆる登場人物が それをボロクソにけなしはじめ
”黄金の道”とはなんなのか という肝心な事自体 決定的な説明がないまま
もしくは 私の理解力の不足のため汲み取り切れないまま
物語は 墜落するが如き終わりを迎えてしまう。
何のためにここまで苦労して読み進めてきたのかが 全く不明のまま終わる。

次の「砂漠の異端者」中盤で
「神皇帝の結末 あれは一体何だったのか」と語り合う場面があるのだが
一同??なのである。
くっそー 



3部1巻 「砂漠の異端者」

神皇帝崩御後1500年。
ポールの時代からは実に5000年経っている。
そして 何千年経っても 相変わらずこの人たち:
ゲセリット ギルド CHOAM トライラックス イックス フィッシュスピーカー 砂虫教徒 らが暗躍する世界である。 何の進歩もない。
つらい。

いわゆる ” 虫使いの少女 ” が登場するのがここから。

第2部以降から すでにそうなのですが
登場人物全員 異常に内省的であり
各々には 思うところ・策略・哲学・信仰・言いたいことが たくさんあるようなのだが
彼らの本心は 決して読者には直接は明かされず
ほのめかしに次ぐほのめかし・・ ひたすらこれである。
読者には 抽象的な それこそ禅問答のような物が 大量に投下されるだけである。
章が展開するたびに 毎回毎回 数ページに渡る禅問答。

デューンワールドでは ゼンスーニ と呼ばれる哲学が設定されており
これらが理解できるには サトリ が必要なのであるが
いいかげんにしちくりッ!!

世界一煮え切らない読書という苦行に耐え続ける中
だんだんと見えてくるのは
そして思い返せば なんだったら最初っからそうだったかもしれないのだが 
デューンってぇのは 読後の「なるほど そうだったのかー」的カタルシスが無い 小説だった。
このサーガは結局なんなのか? なにがいーてーのか?
自分で考えるしかないのである。

===

第3部では 大きな追加要素として
神皇帝崩御後に社会混乱: 大離散 と 飢饉 の時代があり
1500年後の今 その大量の離散民が こっちに帰ってきつつある という状況があります。

誇りある女たち:色仕掛けを武器としたサディスト女王様軍団 の御登場である。
暴力とセックスを使って いろいろと謀略を仕掛けてくる。
老兵テグがいじめられ あやうくやられちゃいそうになっちゃったりします。

「あれ ちょまっ・・
そういえばさっき チェアドッグ:椅子犬 というのがチラッと出てきたんだが。 それがさっきからすっごい引っかかってて・・ 生きた犬の椅子らしいのだが ゲセリットの教母長がこれに座っていて ダンカンはあんなもの嫌いだとか言っていて・・」

・・私は デューンに対して以下の様な注釈をつけている文章を なぜか未だ目にしたことがなく
そしてそれは 私が浅学なだけで デューン評をあまり読んでこなかったから に決まっていると思いたいのだが
どう考えてもそうなのである。

これは「家畜人ヤプー」だろ どう考えても。

さて事ここに至り デューンという世界の景色・姿形が すっかり別のものに見えてくる 新しい目ですっかり見直すべき事態。
神皇帝も ゲセリットも 男女のつがいを操作し血統を管理する事で 未来への軌道調整をしようとする勢力だ。
トライラックスは タンクからゴーラを生み出し 自身の生命サイクルすらいじくり 力を得ようとする(このタンクの正体が最強におぞましい)。
ご存知 ギルドの航宙師は 薬中・人体改造的な能力者集団。
神皇帝自身まさに アラキスの生命体と合体融合して おぞましい姿:芋虫の様な姿に変形した怪物だ。
砂虫ってなんなのですか。何の象徴? なんで少女が 砂虫:レトの”分散した心” にまたがって行進するのですか。
教母を覚醒させる液は 虫を水責めにしてピギャーピギャー言わせて出てくる汁である。
ピッチピチのスティルスーツが好きな人。正直に手をあげなさい。
ゴムジャバールってなんなんですか? 改めて説明できる人いますか? なんでお姉さま達は僕のことを針で刺したり火傷させたりするの? 痛い痛い!

持って回った回りくどい言い回しの数々
煙幕を張るが如く 作者の本心をチラ見せし続ける でも見せない 難解な心象描写
性癖をあからさまにはなかなか明かさない でも言いたい でも怖い。
そうではないのですか? どうなのですか被告人!

そして私はついに このあたりで 本当に ” 嫌い ” になってしまったのです デューンが。

デューンという大長編は
ダンカン:ただ一人最初から最後までこのデューン宇宙を転生し続けるダンカン 可哀想なダンカンが
このクソみたいな世界を放浪し クソを見聞し クソみたいな連中に小突き回され 永遠に苦しみ続ける物語だった。 苦しいのです。

誤解しないで欲しいのですが(誤解ってなんだ?)
私ごときが沼正三先生を評論する能力など完全にゼロです。
わたしは ヤプーがクソだと言いたいのでは 毛頭ない(いやクソの話なわけなんだが。いやそうじゃなくて ちなみにスティルスーツはおしっこ いやちがうちがう待ってくれ聞いてくれ)

私の望みはささやかで
デューンとは実は 今なんとなく世間に流通しているデューンというものに対する立派なイメージとはうらはらの 実はひたすら怪奇幻想の文学だ というこの私の感覚=きもちわりぃ! に勘違いはない という事を確認したいだけです。
私は決して変じゃ無い この感性に異常はない 異常なのはハーバートの方だ あいつは相当やばいぞ みんなわかってくれ 倒錯しているのはあいつだ 僕はおかしくない おかしくないんだぁ


絵は 石ノ森章太郎先生なのだ! これでも違うと言うか!(それは多分偶然・・)
右:家畜人ヤプー〈完結篇〉

Wikiより:
『家畜人ヤプー』は、1956年から『奇譚クラブ』に連載され、その後断続的に多誌に発表された沼正三の長編SF・SM小説。なお、本作品はマゾヒズムや汚物愛好、人体改造を含むグロテスクな描写を含む。




そして「砂丘の大聖堂」

未完で作者が亡くなった と知ったことがとどめとなり
私が「大聖堂」を最後まで読むことはなかったのでした。
1巻だけ読んで 残りは買わずじまい。
本屋で見かけていたであろうに 多分買ったつもりになってスルーしていたのである。
読む気が失せており 家に積読されていると思い込んでいた。
そして 最後まで読んでいないということ自体 ついさっきまでさっぱり忘れていたのである・・

しかし今更もう遅いのである。 絶版 である。

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本当は 大好きなファウンデーションについて書きたかったのです。
ファウンデーションのAppleTVの公開が デューンよりも先なので。

デューンは厄介な存在で 今だに謎だらけで 雑談も長くなってしまった。
ファウンデーションの方は ドラマ見てから感想を書こうかなと思っております。
原作との共通点や違いなど なにか発見があれば書きたいです。

2021.9.20

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